十二社熊野神社(新宿)

西新宿から永福町へつながる「方南通り」と呼ばれる道路があります。(もともとは「栄町通り」だったらしい)

この方南通りを西新宿の高層ビル街から進み、長い坂を下ったところに「十二社(じゅうにそう)」と呼ばれる地域があります。バスに乗ると「十二社池の下」や「十二社池の上」という地名が残っているのがわかります。2009年に廃業しましたが、新宿十二社温泉という黒湯のレトロな温泉施設もありました。(いいお湯でした)

なにせ地名に「池」がつくくらいですから、このあたりには大きな池や滝があったそうで、その池にまつわる逸話もさまざま伝えられています。

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さて、やってまいりました。新宿総鎮守「十二社熊野神社」は、その名の通り十二社にあります。

現在「西新宿」と呼ばれるあたりは、かつて角筈(つのはず)/十二社(じゅうにそう)/淀橋(よどばし)と呼ばれていました。これらの地域が西新宿と言う名に統合されたのは1970年(昭和45年)だそうです。

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熊野神社は、室町時代の応永年間(1394〜1428)に、中野長者鈴木九郎が、故郷である紀州熊野の十二所権現をうつし祀ったものと伝えられ、そのためにこのあたりは十二社と呼ばれるようになりました。

また、周辺にはかつて池や滝があり、江戸時代中期より江戸西郷の景勝地として有名でした。

この周辺に首都高速の「中野長者橋」というインターチェンジがありますが、「中野長者」というのは、この鈴木九郎さんのことです。(どうやらこの「鈴木」という苗字は、熊野から渡ってきた人たちだ、という話は、新橋に勤めているときの患者さんにもきいたことがあります)

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こちらの絵馬は、八咫烏(やたがらす)がモチーフ。お隣で若いお嬢さんたちが「えー。黒い!カラス?サッカーと同じじゃん!」と声をあげていました。ですね。正解です。

八咫烏は、日本神話において、神武天皇を大和の橿原まで案内した導きの神として太陽の化身ともされる。熊野三山においてカラスはミサキ神(死霊が鎮められたもの。神使)とされており、八咫烏は熊野大神(素盞鳴尊)に仕える存在として信仰されており、熊野のシンボルともされる。→★

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おみくじは小吉。このくらいがよろしいです。絵馬も一枚購入。何も考えず、ここでの祈願はただひとつ。「いつか熊野三山にお参りさせていただけますように」これに尽きます。

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拝殿の横には、末社が並びますが、小さなミニチュア滝を備えた弁財天の祠、笠間稲荷、大鳥神社、と錚々たるラインナップです。

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十二社熊野神社は、室町時代の応永年間(1394~1428)に中野長者と呼ばれた鈴木九郎が、故郷である紀州の熊野三山より十二所権現をうつし祠ったものと伝えられます(一説に、この地域の開拓にあたった渡辺興兵衛が、天文・永禄年間(1532~69)の熊野の乱に際し、紀州よりこの地に流れ着き、熊野権現を祠ったともいいます)。

鈴木家は、紀州藤代で熊野三山の祠官をつとめる家柄でしたが、源義経に従ったため、奥州平泉より東国各地を敗走し、九郎の代に中野(現在の中野坂上から西新宿一帯)に住むようになりました。
九郎は、この地域の開拓にあたるとともに、自身の産土神である熊野三山より若一王子宮を祠りました。その後鈴木家は、家運が上昇し、中野長者と呼ばれる資産家になったため、応永10年(1403)熊野三山の十二所権現すべてを祠ったといいます。

江戸時代には、熊野十二所権現社と呼ばれ、幕府による社殿の整備や修復も何回か行われました。
また、享保年間(1716~1735)には八代将軍吉宗が鷹狩を機会に参拝するようになり、滝や池を擁した周辺の風致は江戸西郊の景勝地として賑わい、文人墨客も多数訪れました。

明治維新後は、現在の櫛御気野大神・伊邪奈美大神を祭神とし、熊野神社と改称し現在にいたっています。
氏子町の範囲は、西新宿ならびに新宿駅周辺及び歌舞伎町を含む地域で、新宿の総鎮守となっています。→★

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十二社の池は、慶長11年(1606)伊丹播磨守が田畑の用水溜として大小つの池を開発したもので、現在の熊野神社の西側、十二社通りをへだてたて建つ三省堂ビル・後楽園ビルのあたりにありました。

大池(中池・上の溜井)は南北126間・東西8~26間とされ、水源は湧水であったようです。

十二社の中池、上の溜井と呼ばれたほか、中野長者の娘が婚礼の夜1匹の蛇に変わり、この池に投身した伝説から蛇池とも呼ばれました。(中略)

池の周囲には享保年間(1716~35)より多数の茶屋ができ景勝地として振るわいました。明治時代以後は、大きな料亭ができ花柳界として知られるようになり、最盛期には料亭・茶屋約100軒、芸妓約300名を擁したほか、ボート・屋形船・釣り・花火などの娯楽も盛んに行われましたが、昭和43年(1968)7月に埋め立てられました。

新宿は、もともと湿地帯であり湿った土地の上に築かれた街である、という話は、「アースダイバー」の「新宿〜四谷編」に詳しく語られています。

陸路が発達していなかった時代には、海運を司るものが力をもち、中野長者となる鈴木九郎の黄金伝説は、熊野水軍の力と、東北で採れる金の採掘と流通のネットワークにつながっていたのだろうと推論されています。

そして、乾燥した明るい坂の上の高台に住む裕福なものたちと、坂の下の湿って暗く水っぽい土地との対比も鮮やかに示されます。

十二社熊野神社 →★

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